今と未来の子供たちのために

認定NPO法人「安房の海を守り育む会」 理事長 福原 一

私が住む館山市は、古くから多くの人たちが避暑に訪れる海水浴の名所だった。館山湾は「鏡ケ浦」という美称で呼ばれ、砂浜にはアサリやナミノコガイがどっさりいて、小学生だった私は友達とそれを取り合ったものだった。5年生の社会科の教科書には、日本の有名漁港が17ケ所記され、千葉県では銚子港と私の家の近くにある船形港だけだった。漁港の賑わいを見ていた私は、小学生ながら船形を誇らしく思っていた。
しかし、人間の利便性の追求と歩調を合わせるかのごとく、私たちは川や海を汚し、ヘドロを堆積させ、多くの生物を減少させてしまった。川や海を浄化していたのは、微生物の働きが大きい。私たちが皿洗い、洗濯などに使用している合成洗剤を川に流せば微生物は死んでしまう。川や海が汚れるのは当然である。館山湾もご多分に漏れず、30年以上にわたり汚れていた。5年前までは毎年大量(20~32トン)の塩素が撒(ま)かれていた。ふん便性大腸菌などのばい菌を殺し、海を消毒して海水浴ができるようにするためである。
しかし何故、4年前から塩素を撒かなくても海水浴場の水質が〈AA〉や〈A〉になったのだろうか? それは当会がこれまで毎週日曜日に故流し続けた「有用微生物群EM」の造る有機酸(クエン酸、酢酸、乳酸)、および数種の抗酸化物質がふん便性大腸菌の増殖を抑制したことと、市民の環境意識が高まったことが考えられる。

館山の良さは何か?
私が当会をつくろうと思い立ったのは2000年春、知人である房目新聞社の忍足利彦記者からの一言からだった。当時、「私を育ててくれた剣道に恩返しをしよう」「小学生の心と体を鍛えよう」との思いで、船形小学校で剣道を教えていた。忍足記者は私に「子どもたちに館山の、南房総の良さを教えて欲しい。そして彼らが地元に就職し、居着くようにして欲しい」と話してくれた。
館山の良さとは何か? どうしたら子どもたちが居着くのか?
私がたどり着いた答えは「海」だった。館山の最大の魅力である海が、もし私の子どもの頃のようにきれいで豊かになったらどうだろう?
人の心を癒し、観光産業や漁業の振興に繋がるのではないか。そうなったら居着く人も多くなるだろう。私がやるべきことはコレだと気付かされた。
ふと見ると、私の家の前のどんどん橋には「私たちに残してください、きれいな川を」という子ども会の標語が掲げられていた。15年以上もただ眺めているだけだったこの標語を改めて見て、なんとかしたいと思った。

産みの苦しみ - 本格的な活動開始まで
その日から、私の活動が始まった。しかし本格的な海の浄化活動にたどり着くには2年の歳月が必要だった。
その第一関門は、活動資金づくりだった。ボランティア活動であってもお金がなければなにもできない。この難問から救ってくれたのは亡き祖父だった。
我が家は代々続く酒屋で、祖父がつくった清酒の独自ブランドがあった。私はこれを70年ぶりに復活させ、売り上げの5%を活動資金に充てることにした。その酒の名は「房の海」。館山の海をこよなく愛した祖父が私の夢を助けてくれた。
第2の関門は、組織づくりであった。活動の内容からいって、できるだけ多くの協力者が必要だと考えた。館山の人間は皆、海を愛している。話をすれば多くの人が理解してくれた。しかし、一緒にやろうと言ってくれる人はそうはいない。けげんな顔をされながらも多くの人を口説いた。
当会の設立は2001年7月の海の日。集まった会員は30人。これだけの人を集めるのに1年間が必要だった。
第3のそして最大の関門は、海を浄化する方法そのものの発見だった。会の設立当初、私たちは川に垂れ流す家庭排水を減らすように働きかける啓発運動や、海岸の清掃活動を行った。しかし、これだけでは、汚れるスピードを遅くするだけで、海をきれいにすることはできない。私たちは、館山の海を50年前の状態に戻す方法を探し求めていた。
その答えである「有用微生物群EM」との出会いは偶然だった。ある日、70歳位のご婦人のお客様が「私はEMを家の前のどぶに撒いてヘドロを分解するのに使ったり、掃除洗濯に使ったりしている」と話された。私は仰天した。その後、文献を読みあさって研究し、「俺を信じてくれ、一緒に館山の海を復活させよう」と仲間を口説いた。
その後、理事会でEMを活用することが決定された。2002年2月のことである。しかし、現在のように大型の電熱機付の培養器(200リットル、400リットル、3000リットル、計6台)があるわけではない。手づくりである。
20リットルの水を入れるタンクを30個購入して、実験をくりかえした。EMの種菌(たね)の量、その餌の種類と量、加湿する温度の違いによってどのように変化をするのか。30パターン以上を試した。自宅の風呂を2ヶ月間沸かしっぱなしにして、20リットルタンクを浴槽に入るだけ入れて調査研究をした。
その間は風呂に入れず、寒さを我慢してシャワーで過ごした。他方、当会は米のとぎ汁発酵液の作成を市民に推奨した。米のとぎ汁は炊事排水の汚濁成分ウエイトの58%を占めると言われている強烈な汚染源である。だがEMを入れることで、有用微生物が増殖し浄化源になる。米のとぎ汁の腐敗の変化を、夜間30分おきに10時間ペーハー計で計測し、米をといだらすぐ使用しなければならないと確信した。こうしているうちに、漁業関係者から多額の寄付金をいただき、初めて200リットルの電熱機付EM培養器を購入し、放流できたのは同年6月30日だった。

継続の苦難とご褒美
宇田川でのEM放流開始から約13年。当会は毎週日曜日、一度も休むことなく活動を継続してきたが、これは数多くの団体・企業・個人からのありがたい資金のご支援と、会員の献身的な頑張りに支えられたものだ。
毎週のEM活性液(2009年秋までは、2トン)の仕込みおよびその放流には大変な労力がかかる。これを行っている中心は、60~70歳代の会員なのである。しかも晴れの日ばかりではない。雪の日、雨の日。極寒・猛暑。ケガや病気を押しての参加もある。思い出すと言葉にならない。ほんとうに感謝しかない。
しかし、そのお陰で、望外のご褒美を得ることができた。宇田川のヘドロは推計800立方メートル以上も滅少した。30年間ヌルヌルしていた那古船形の海はサラサラの昔日を戻し、多くの生物が再生した。

naminokogai01▽ナミノ=ガイ(千葉県の絶滅危惧種)目‥2004年夏、30年ぶりに復活
▽バカガイ=2004年夏、20年ぶりに大量発生。那古海岸は潮干狩りで賑わった
▽サルボウガイ=2006年、40年ぶりに発見
▽サケの遡上=2007年11一月、宇田川で歴史上初めて確認。
▽さらに2005年頃から、汚れた海には生息しない「アマモ」が数多く海岸に寄せられるようになった。
アマモは小さな魚の産卵場所であり、すみかでもあるため、漁獲高にも良い影響を与えている。
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ステージアップ

ここまでは、残念ながら、館山湾のごく一部、那古船形だけの話である。館山の海全体を浄化、再生するには、活動を市内全域に広げなければならない。
行政が直接放流することは、館山市の財政から難しい。残る手だては、市民の力の結集である。市民の力で、今と未来の子どもたちが美しい館山の海から恩恵を受け取れるようにしてあげたい。なにより、私たちの時代に、貴重な宝を汚してしまった。なんとか50年前のきれいな海に戻して引き渡したい。館山の海を本気で日本一にするために『館山「川と海」再生プロジェクト』の準備を始めた。
内部にも「やり切れるのか」と危ぶむ声もあった。会員の今以上の負担増を心配する者もいた。なにより、活動資金が決定的に足りない。今の私たちにはそれを工面することは難しい。このプロジェクトの準備に私たちは半年以上の時間をかけ議論を重ねた。
2008年3月になり汐入川の調査を行った。実態はどうなのか? ひざ下までズッポリ埋まるほどのヘドロ。これはひどい。やるしかない! ここで、メンバーの心が決まった。プロジェクト開始を決心した。どんなことがあっても最後まで投げ出さないと決意した。
こうして『館山「川と海」再生プロジェクト』の立ち上げから丸3年の2011年8月、市民の皆さんからいただいた寄付金600万円で第3活動拠点(第3倉庫)を設立した。3トンのEM活性液を一度に培養できる機械を購入し、館山湾の中央に流れ込む汐入川への放流を開始した。現在、年間約300万円の活動費を使い、日曜日の放流量は5トンに達している。
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那古海岸で大きなハマグリとアサリが捕れたと数人から報告があった。これは約35年ぶりの復活である。
さらに、11月の当会が行った水中カメラマンによる館山湾のアマモ調査では、大桟橋(多目的観光桟橋)の南側入江には、アマモが群生していた。この場所は、当会が排水路を通じて約3年前から毎週EMを放流している。館山湾は一歩一歩、昔のようにきれいで豊かな海を取り戻してきた。

このようにいくつもの成果を出してきた、安房の海を守り育む会の活動の支えは3か所の活動拠点(EM培養倉庫)に掲げてある次の一編の詩である。愛媛県の高校教員として国語を教え、仏教伝道文化賞を受賞した、故・坂村真民先生の「あとから来る者のために」である。この詩を記して、私たちの決意とさせていただく。


あとから来る者のために
田畑を耕し 種を用意しておくのだ
山を 川を 海を
きれいにしておくのだ
ああ あとから来る者のために
苦労をし 我慢をし
みなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできる
なにかをしていくのだ


(現在会員募集中。事務局は0470(20)5022です。)


本文は、下記でも掲載をいただいております。

千葉県教育文化研究センター「ちば・教育と文化」平成26年刊 84号
(掲載時タイトル:あとから来る者のために)

房日新聞 2014年12月24日~26日 分割掲載

 

http://npo-awanoumi.org/main/